フィールドパッチ

京田辺の

京田辺の歴史は古く、弥生時代から始まる。奈良と京都という歴史的に重要な都市に挟まれ、山城国一揆の舞台として、また有名な一休さんが晩年を過ごした地としても知られている

平城京と平安京をつなぐ木津川の流域に発展してきた京田辺。古代から現在まで実に興味ふかい歴史が積層している。長く京田辺市の教育委員会に身を置いてきた鷹野さんに、京田辺市の歴史の深さや、文化的な特徴について話を聞いた。

話を聞いた人:鷹野さん(京田辺市)

京田辺の文化

いろいろな時代が交差する地



「京田辺の地は旧石器時代から延々と続いている。いろいろな時代の縦糸と横糸の交差している場所であり、時代ごとにおもしろい人物が登場してきます。特に弥生時代と中世の頃のものが多く残っているのが特長だと思います」と鷹野さん。弥生時代の遺構は特に多く、住居跡、集落跡、そして古墳が低い山の先端部や麓、平地から少し高い標高が30〜60mのところに見られる。奈良時代になると古墳のかわりに菩提寺が建てられるようになり、西暦511年に継体天皇が京都最初の都をつくったのも京田辺だ。中世には山城国一揆の舞台にもなり、地域住民による自治が8年にもわたって行われた地としても注目されているなど自治独立心の高い気質を持った地域でもあった。明治には自由民権運動が盛り上がり、京都府内の4つの私立中学校のうち2つが京田辺市内に存在していた。大住の愛民義塾と三山木の南山義塾(開校式には同志社大学を作った新島襄が挨拶した)がそれだ。

京都と奈良をむすぶ



甘南備山は平安京の南の基準となった山で古くから信仰の対象となってきた。標高は高くないが、地形の関係で京都市内からでもよく見える。今昔物語集にも記述があり、平安時代からよく知られた山だったことがうかがえる。また京都と京田辺のつながりを示すのが一休さんだ。「京田辺といえば一休さん」というまでになっており、市内随一の観光名所になっているのが一休寺(酬恩庵)だ。ここはアニメで有名な一休さん本人が晩年を過ごした場所で、今も境内には本人の墓所がまつられている。最近は、市内各所に一休和尚の銅像が設置され機運を盛り上げ、非常に良い状態が保たれている。

禅寺の一休寺が京都文化の南の端というならば、奈良文化の北の端は国宝の十一面観音がまつられている観音寺ということになる。京田辺市内にはかつて奈良の社寺勢力の荘園だった地域も少なくない。また、一方、京田辺市の東側に位置する小高い丘陵地になっている飯岡は、木津川沿いのランドマークとして重要な場所だったと考えられている。その証拠に弥生時代からの集落が確認されており、複数の古墳も存在している。ここは平城京の条坊との関連が指摘されている。

京田辺の逸話の本当



「京田辺の寺社には多くの逸話があるがその多くは、椿井さんの創作なんだよ」と鷹野さんは教えてくれた。京田辺の神社に伝わる由緒書きのほとんどは江戸時代後半につくられた椿井政隆の「椿井文書」(つばいもんじょ)だという。この「椿井文書」の内容については今では創り話とされているが、それぞれが話のつじつまが合うようにつくられており、150年ほどの間、あたかも本当の話として受け止められてきた。図書館などで閲覧することができる田辺町史でも「椿井文書」を基にした話は数え切れない。古代から人々が行き交い、中世から近世、現代にかけての歴史が幾重にも積みかさなっている京田辺。真実らしく見えるものとそうでないものの差はほとんどないのかもしれない。

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平城京と平安京をつなぐ木津川の流域に発展してきた京田辺。古代から現在まで実に興味ふかい歴史が積層している。長く京田辺市の教育委員会に身を置いてきた鷹野さんに、京田辺市の歴史の深さや、文化的な特徴について話を聞いた。

話を聞いた人:鷹野さん(京田辺市)

京田辺の文化

いろいろな時代が交差する地



「京田辺の地は旧石器時代から延々と続いている。いろいろな時代の縦糸と横糸の交差している場所であり、時代ごとにおもしろい人物が登場してきます。特に弥生時代と中世の頃のものが多く残っているのが特長だと思います」と鷹野さん。弥生時代の遺構は特に多く、住居跡、集落跡、そして古墳が低い山の先端部や麓、平地から少し高い標高が30〜60mのところに見られる。奈良時代になると古墳のかわりに菩提寺が建てられるようになり、西暦511年に継体天皇が京都最初の都をつくったのも京田辺だ。中世には山城国一揆の舞台にもなり、地域住民による自治が8年にもわたって行われた地としても注目されているなど自治独立心の高い気質を持った地域でもあった。明治には自由民権運動が盛り上がり、京都府内の4つの私立中学校のうち2つが京田辺市内に存在していた。大住の愛民義塾と三山木の南山義塾(開校式には同志社大学を作った新島襄が挨拶した)がそれだ。

京都と奈良をむすぶ



甘南備山は平安京の南の基準となった山で古くから信仰の対象となってきた。標高は高くないが、地形の関係で京都市内からでもよく見える。今昔物語集にも記述があり、平安時代からよく知られた山だったことがうかがえる。また京都と京田辺のつながりを示すのが一休さんだ。「京田辺といえば一休さん」というまでになっており、市内随一の観光名所になっているのが一休寺(酬恩庵)だ。ここはアニメで有名な一休さん本人が晩年を過ごした場所で、今も境内には本人の墓所がまつられている。最近は、市内各所に一休和尚の銅像が設置され機運を盛り上げ、非常に良い状態が保たれている。

禅寺の一休寺が京都文化の南の端というならば、奈良文化の北の端は国宝の十一面観音がまつられている観音寺ということになる。京田辺市内にはかつて奈良の社寺勢力の荘園だった地域も少なくない。また、一方、京田辺市の東側に位置する小高い丘陵地になっている飯岡は、木津川沿いのランドマークとして重要な場所だったと考えられている。その証拠に弥生時代からの集落が確認されており、複数の古墳も存在している。ここは平城京の条坊との関連が指摘されている。

京田辺の逸話の本当



「京田辺の寺社には多くの逸話があるがその多くは、椿井さんの創作なんだよ」と鷹野さんは教えてくれた。京田辺の神社に伝わる由緒書きのほとんどは江戸時代後半につくられた椿井政隆の「椿井文書」(つばいもんじょ)だという。この「椿井文書」の内容については今では創り話とされているが、それぞれが話のつじつまが合うようにつくられており、150年ほどの間、あたかも本当の話として受け止められてきた。図書館などで閲覧することができる田辺町史でも「椿井文書」を基にした話は数え切れない。古代から人々が行き交い、中世から近世、現代にかけての歴史が幾重にも積みかさなっている京田辺。真実らしく見えるものとそうでないものの差はほとんどないのかもしれない。

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