美術家
美術家
1991年長野県生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒業後、鷹の台のアトリエや茨城県ひたちなか市などで、制作活動を行う。
色の拘りが強く一貫して紺色の絵画を描いてきました。紺色が織りなす絵画の向こう側の世界の深さと、「個人」の人間の深さを結びつけながらです。色への拘りが派生し、日本画の素材の強さに魅了されたことをきっかけに、刺激の強い色や、廃材などの様々な素材を多用するようになりました。
うるさい雑多なモチーフの重なり合いは、実体として「今生きている」、生々しい瞬間をとどめようとする行為です。
「個人」だとか、「生きる」だとかを哲学していると、「肉体」があるが故に生きるとは「有限」なのだと思い至り、これらが交錯する現実や社会とより向き合うようになってからは、地域アートに参加し、現地の「伝統」「文化」「信仰心」といった言葉の意味を強く意識するようになりました。
個人、生きる、肉体、有限、伝統、信仰 −そんな流れとテーマを私の中にもちながら、先述のとおり廃材など様々な素材で作品をつくっています。
舞鶴港が戦後「引き揚げ港」と呼ばれた歴史を辿りました。「個人」への尊重というのが、私の中で大きなテーマにあります。みんながみんな尊い人間なのに、国家という見えない脅威を前に個人の尊さを失い、殺し合いをさせられる。そんな悲しい戦争の構図をもとに作品の構想が時折浮かんでいて、今回のリサーチテーマもその延長線上にあります。
引き揚げ港は、戦争で戦った日本人、外国で抑留した日本人を引き揚げるところです。舞鶴港は、国家の脅威に消されてしまった「個人の尊厳」が、引き揚げられるその瞬間に再び戻る場所として見えてきました。そして舞鶴引き揚げ記念館へ赴き、取材を行いました。
記念館での取材で、舞鶴港で主に引き揚げられたのは、シベリアで抑留をしてきた日本人ということを知り、シベリア抑留経験者の方から生の声を聞くべく、沢山のご協力を得ました。
最終的に、シベリア抑留経験者の原田さんという方のお話を、最後2日で行った成果報告展で来場者にヘッドホンで聞いてもらいました。さらに紙代わりの白樺の皮と、インクがわりのススを用意して、スチール缶で手作りしたペンを使い、印象に残った原田さんの言葉を描き、壁に貼り付けていくという方法で、形にしました。白樺とススと缶で手作ったペンは、シベリア抑留の際、「日本に帰る」「なんとしてでも帰る」という強い想いを詩に乗せる際に使用していたことからきています。来場者にも、この追体験をしてもらいたいという思いから、白樺にススで描くことをしてもらいました。
そして、原田さんの声から、それぞれの来場者が感じ取った思いを、壁一面に貼り付けることで、シベリア抑留をきっかけに戦争に対する他者同士の感情が入り混じる、そんな空間を作りたいと思いました。
そもそもの「京都:Re-search in舞鶴」に参加したきっかけは、地域アートへの理解を深めるためでした。本プログラムに参加する前に、私は茨城での地域アートプログラムに参加して、現地での滞在制作を行っていました。茨城では、知らない土地で私に何が出来るのか、全体像が何も見えない暗中模索の最中にあり、そんな中リサーチをメインに短期間で行う本プログラムのことを知って、これをきっかけに、地域とは?地域アートとは?という目の前にどっしり構える疑問が少しでもクリアになればと思い、応募して参加に至ります。
結局その疑問は晴れないままプログラム中は茨城同様に苦戦していましたが、今当時を振り返った時、ぱっと頭に浮かぶものは、そこで出会った「人」の存在でした。地域アートに参加するまでアトリエでの制作がメインだった私が、全く知らない土地で作品を作るということは、まさに全く知らないものと出会うということです。それはアトリエで、私という一個人の枠内で作品を作る、普段の状況では起き得ないことが、次々と私にぶつかってくる、ということでもあります。
その土地の面白い人たちと、アートがきっかけとなって出会うことから、色々なことが連鎖し、予期せぬ出来事が生まれてくる、その繋がりやその瞬間に、自分自身を一切預けてみたくなりました。
先述の通り、私は今回舞鶴港の引き揚げ港と呼ばれた歴史から、シベリア抑留の痕跡を辿り、それをきっかけに沢山の方たちと出会い、シベリア抑留に対する、様々な人の記憶や感情に触れました。その記憶や感情に出会っていくという不測の事態にこの身を一切預けることで、私は、余計な拘りを次々と捨てていけました。
アトリエでの自分の枠内で作品を作る行為は、自分がアーティストの枠から出られない、アート以外に飛び出せない気持ち悪さがどこかにありましたが、知らない土地に出掛け、余計な拘りを次々と捨てていける私になることで、アーティストの私ではなく、`ただの私`になれました。`ただの私`個人が、知らない個人と出会っていく。その先の作品云々よりも、このコミュニケーションが起こす奇跡こそが、単純に嬉しくてしょうがなかったと、そんな風に今思い返しています。
コミュニケーションの奇跡に魅了されたことで、知らない土地に行きたいと思うようになりました。私が、お高いアーティストではなく、`ただの私`として生きられるような、そんな人との出会いをこれから沢山していきたいです。
その中で、紺色に感動することに始まった私の制作が、人との出会いをもたらすツールになり得ると信じているので、アトリエの中で自分と向き合うことも、ツールを研磨するための大切な時間なのだと思います。
美術家
美術家
1991年長野県生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒業後、鷹の台のアトリエや茨城県ひたちなか市などで、制作活動を行う。
色の拘りが強く一貫して紺色の絵画を描いてきました。紺色が織りなす絵画の向こう側の世界の深さと、「個人」の人間の深さを結びつけながらです。色への拘りが派生し、日本画の素材の強さに魅了されたことをきっかけに、刺激の強い色や、廃材などの様々な素材を多用するようになりました。
うるさい雑多なモチーフの重なり合いは、実体として「今生きている」、生々しい瞬間をとどめようとする行為です。
「個人」だとか、「生きる」だとかを哲学していると、「肉体」があるが故に生きるとは「有限」なのだと思い至り、これらが交錯する現実や社会とより向き合うようになってからは、地域アートに参加し、現地の「伝統」「文化」「信仰心」といった言葉の意味を強く意識するようになりました。
個人、生きる、肉体、有限、伝統、信仰 −そんな流れとテーマを私の中にもちながら、先述のとおり廃材など様々な素材で作品をつくっています。
舞鶴港が戦後「引き揚げ港」と呼ばれた歴史を辿りました。「個人」への尊重というのが、私の中で大きなテーマにあります。みんながみんな尊い人間なのに、国家という見えない脅威を前に個人の尊さを失い、殺し合いをさせられる。そんな悲しい戦争の構図をもとに作品の構想が時折浮かんでいて、今回のリサーチテーマもその延長線上にあります。
引き揚げ港は、戦争で戦った日本人、外国で抑留した日本人を引き揚げるところです。舞鶴港は、国家の脅威に消されてしまった「個人の尊厳」が、引き揚げられるその瞬間に再び戻る場所として見えてきました。そして舞鶴引き揚げ記念館へ赴き、取材を行いました。
記念館での取材で、舞鶴港で主に引き揚げられたのは、シベリアで抑留をしてきた日本人ということを知り、シベリア抑留経験者の方から生の声を聞くべく、沢山のご協力を得ました。
最終的に、シベリア抑留経験者の原田さんという方のお話を、最後2日で行った成果報告展で来場者にヘッドホンで聞いてもらいました。さらに紙代わりの白樺の皮と、インクがわりのススを用意して、スチール缶で手作りしたペンを使い、印象に残った原田さんの言葉を描き、壁に貼り付けていくという方法で、形にしました。白樺とススと缶で手作ったペンは、シベリア抑留の際、「日本に帰る」「なんとしてでも帰る」という強い想いを詩に乗せる際に使用していたことからきています。来場者にも、この追体験をしてもらいたいという思いから、白樺にススで描くことをしてもらいました。
そして、原田さんの声から、それぞれの来場者が感じ取った思いを、壁一面に貼り付けることで、シベリア抑留をきっかけに戦争に対する他者同士の感情が入り混じる、そんな空間を作りたいと思いました。
そもそもの「京都:Re-search in舞鶴」に参加したきっかけは、地域アートへの理解を深めるためでした。本プログラムに参加する前に、私は茨城での地域アートプログラムに参加して、現地での滞在制作を行っていました。茨城では、知らない土地で私に何が出来るのか、全体像が何も見えない暗中模索の最中にあり、そんな中リサーチをメインに短期間で行う本プログラムのことを知って、これをきっかけに、地域とは?地域アートとは?という目の前にどっしり構える疑問が少しでもクリアになればと思い、応募して参加に至ります。
結局その疑問は晴れないままプログラム中は茨城同様に苦戦していましたが、今当時を振り返った時、ぱっと頭に浮かぶものは、そこで出会った「人」の存在でした。地域アートに参加するまでアトリエでの制作がメインだった私が、全く知らない土地で作品を作るということは、まさに全く知らないものと出会うということです。それはアトリエで、私という一個人の枠内で作品を作る、普段の状況では起き得ないことが、次々と私にぶつかってくる、ということでもあります。
その土地の面白い人たちと、アートがきっかけとなって出会うことから、色々なことが連鎖し、予期せぬ出来事が生まれてくる、その繋がりやその瞬間に、自分自身を一切預けてみたくなりました。
先述の通り、私は今回舞鶴港の引き揚げ港と呼ばれた歴史から、シベリア抑留の痕跡を辿り、それをきっかけに沢山の方たちと出会い、シベリア抑留に対する、様々な人の記憶や感情に触れました。その記憶や感情に出会っていくという不測の事態にこの身を一切預けることで、私は、余計な拘りを次々と捨てていけました。
アトリエでの自分の枠内で作品を作る行為は、自分がアーティストの枠から出られない、アート以外に飛び出せない気持ち悪さがどこかにありましたが、知らない土地に出掛け、余計な拘りを次々と捨てていける私になることで、アーティストの私ではなく、`ただの私`になれました。`ただの私`個人が、知らない個人と出会っていく。その先の作品云々よりも、このコミュニケーションが起こす奇跡こそが、単純に嬉しくてしょうがなかったと、そんな風に今思い返しています。
コミュニケーションの奇跡に魅了されたことで、知らない土地に行きたいと思うようになりました。私が、お高いアーティストではなく、`ただの私`として生きられるような、そんな人との出会いをこれから沢山していきたいです。
その中で、紺色に感動することに始まった私の制作が、人との出会いをもたらすツールになり得ると信じているので、アトリエの中で自分と向き合うことも、ツールを研磨するための大切な時間なのだと思います。
臼田 那智
美術家
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美術家
瀧澤 秀樹
美術家
大河原 光
写真家
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三枝 愛
東京藝術大学美術研究科 在籍
井上 裕加里
現代美術作家
石山 ひなの
学生 札幌大谷大学芸術学部 在籍
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本田 耕人
インディペンデント・キュレーター
本田 耕人
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舞鶴・フォトレポート
舞鶴での活動を写真でご報告。
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